松山道後村めぐり 石手寺(いしてじ)

石手寺は、道後村めぐり15番に指定されています。
四国霊場51番札所です。
寺伝によれば聖武天皇の神亀5(728)年に勅宣によって
大領・越智玉純が伽藍を創建したということです。
創健された当時は、「安養寺」となっていたようです。
本堂前の春日燈篭の台座に嘉元四年(一三〇六)、安養寺と書かれたものがあります。









前田伍健
前田伍健は、明治22年に香川県高松市で生まれました。
仕事の関係で愛媛県に移り住んでから、
趣味に生きた方として、有名です。
川柳の第一人者として有名ですし、「野球拳」の創始者としても知られています。

野球拳踊り
大正13年、前田伍健は伊予鉄道電気野球部の副監督を務めていましたが、
高松に遠征して惨敗しました。
その夜の宴会で、選手たちを元気づけるために、
前田伍健は即興で野球拳の歌と振り付けを作り上げたといわれています。
これがいつの間にか、お座敷芸として全国にひろがりました。

この他にも、川柳は特に有名ですし、居合や絵画なども達人として知られています。
道後村めぐり16番 「風土記の丘」に句碑が残っている富田狸通とは、
同じ会社に勤めることもあり、親交もあつかったようです。
前田伍健の死後、墓に参った富田狸通は、

「狸通さん、くよくよ嘆かんようにしておくれいな、みんな定命じゃけん」

前田伍健の、こんな声を聞いた気がすると言われています。

石手寺には、
多くの句碑や歌碑があります。
前田伍健の句碑も、
スタンプ台から離れたところにあります。
この碑は、伍健の句碑の近くにあります。
訪問されたおりには、
チェックしてください。





石手寺の名前の由来

衛門三郎の物語

昔、伊予の国に「衛門三郎」というよく深い長者が住んでいました。
ある日、みすぼらしい格好の僧が門前に来ました。
托鉢の僧でしたが、衛門三郎は、托鉢を取り上げて、
投げつけてしまいました。
その僧は、弘法大師でした。

その後、8人の男の子が次々と亡くなってしまいました。
衛門三郎は、罪を悔い改めて、弘法大師に会うため、
家を捨てて四国巡拝に出ました。

ところが四国をいくら回っても弘法大師に会うことは できませんでした。
そして、21回目。衛門三郎は阿波の国(現在の徳島県)焼山寺の麓で
病にかかって倒れてしまいました。起き上がることもできなくなった時に、
突然、衛門三郎の枕元に弘法大師が現れて、衛門三郎の手に、
「衛門三郎」と彫りつけた一寸八分の石を握らせました。
そして、「おまえの罪は許された。河野一族の子に生れ変るであろう・・・。」
と弘法大師が告げたため、衛門三郎は、安心して息をひきとりました。

その後、河野家の城主の子が生まれましたが、
生まれた時から決して手を開かないため、安養寺(現在の石手寺)に
祈念したところ、手を開いて、この石が出てきたそうです。
石を寺に納めて、寺号を安養寺から石手寺にあらためたのが、
石手寺の名前の由来といわれています。






坂の上の雲の町 の看板です。
司馬遼太郎 「坂の上の雲」にも、石手寺は登場します。






国宝の「二王門」をはじめとして、鎌倉時代の建物が残っています。
重要文化財に指定されているものも多くあります。
裏山は、そのまま古墳群です。
道後温泉とともに、古くから栄えていたのでしょう。






明治時代以降は、多くの文学者も訪れています。
句碑や、歌碑は、いろいろなところにあります。
正岡子規、与謝野晶子などの歌碑があります。






広い敷地の中には、寺と言うよりは、遊園地?みたいな
いろいろなものや、オブジェも発見できます。
お遍路さんで、毎日にぎわっていますが、
観光に訪れる方も、多くいます。






女どもの 赤き蕪を 引いて居る
           正岡子規


時々、食べたくなるのは、やはり地元に住んでいるせいでしょうか。
歯ざわりが、好きです。

石手寺には、他にも名物があります。
「おやき」は、石手寺を訪れない人も買っていきます。




四国 松山 道後村めぐり15番 石手寺

四国 松山 道後村めぐり16番 風土記の丘

四国 松山 道後村めぐり17番 岩堰

四国 松山 道後村めぐり18番 東野御茶屋跡

四国 松山 道後村めぐり19番 へんろ橋

四国 松山 道後温泉

湯築城 跡

ロシア人墓地

坊ちゃん列車

  






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